2024年4月23日に、虚血性心疾患のため札幌市の病院で死去した、元スキージャンプ選手の笠谷幸生さん。
札幌オリンピックでは、「日の丸飛行隊」と呼ばれ日本中を沸かせましたよね。
今回は、
- 笠谷幸生のプロフィール・経歴
- 笠谷幸生の現在(生前)は?
- 笠谷幸生の家族は?
- 笠谷幸生の会社は?
- 笠谷幸生死去に対するネットの反応
- まとめ
についてまとめていきます。
笠谷幸生のプロフィール
今回は、笠谷さんのプロフィールをまとめてみました!
名前 | 笠谷幸生 |
年齢 | 80歳没 |
生年月日 | 1943年8月17日 |
出身 | 北海道後志支庁余市郡大江村(現・仁木町) |
学歴 | 余市高校、明治大学卒業 |
職業 | スキージャンプ選手 |
所属 | ニッカウヰスキー |
続いて、笠谷さんの経歴についてまとめてみました!
・1963年 明治大学経営学部に入学
・1964年1月 全日本スキー選手権で初優勝
・1964年 インスブルックオリンピックに出場。70m級で23位、90m級で11位。 1967年 明治大学を卒業、ニッカウヰスキーに入社。余市工場に配属
・1968年 グルノーブルオリンピックに出場。70m級23位、90m級で20位。
・1970年 チェコスロバキア・ビソケタトリでのノルディックスキー世界選手権70m級で銀メダル獲得
・1971年 札幌でのプレ五輪大会では70m級で圧勝
・1972年 札幌オリンピックで日本人初の冬季五輪金メダリスト
・1974年 ニッカウヰスキー札幌支店販売促進課へ異動
・1976年10月 現役引退。
・1984年サラエボオリンピック、1988年カルガリーオリンピックの日本代表チームのコーチとして参加。その後連盟の強化コーチを退任。連盟の飛型審判委員会委員となる。
・1992年 ニッカウヰスキー東京本社広報部部長に昇格。 その後国際審判員の資格も取り、ワールドカップ、オリンピック、世界選手権などのジャンプ競技で審判を務めた。
・1998年 ニッカウヰスキー北海道支社副支社長就任を最後に、1999年退社。タクトスポーツプラザに入社。
・2001年 全日本スキー連盟担当理事、ジャンプ部長兼ヘッドコーチに就任。サッポロノルディックスキークラブ所属。札幌スキー連盟副会長。
・2003年 紫綬褒章を受章
・2010年 バンクーバーオリンピックでは、日本選手団副団長を務める。
・2018年 文化功労者を顕彰
笠谷幸生の現在は?
笠谷さんの現在(生前)はどのようなものだったのでしょうか?
笠谷さんは日本オリンピック委員会(JOC)理事として、2010年バンクーバー五輪で日本選手団副団長を務めます。
2018年には、文化功労者に選ばれました。
しかしその後については、情報が公開されていませんでした。
晩年は闘病していたのかもしれないですね。
笠谷幸生の家族は?
笠谷さんのご家族はどのような構成になっているのでしょうか?
まず、妻の「則子」さんという方がいます。
則子さんとの間に子供がいたかどうかについては明らかになっていません。
また、お兄さんに同じくスキージャンプ選手の「笠谷昌生」さんがいます。
ご兄弟で同じ競技の選手とはすごいですよね!
その他のご家族については公開されていないようでした。
笠谷幸生の会社は?
笠谷さんの会社はどこだったのでしょうか?
笠谷さんは明治大学を卒業した後に、「ニッカウヰスキー」に入社しています。
その後、「タクトスポーツプラザ」に入社していました。
この後については公表されていないと思われます。
ネットの反応
・札幌五輪の日の丸飛行隊が一人もいなくなってしまって寂しい気持ちでいっぱいです。 お疲れ様でした。
・80歳ならまだまだお若いのに残念です。
・あのキラキラしたオリンピックを支えて下さった笠屋選手ありがとうございました。
・札幌五輪で日の丸飛行隊金・銀・銅独占さぞかし熱狂したでしょう。謹んでお悔やみ申し上げます。
・寡黙な人だったという印象。 日の丸飛行隊で表彰台のトップに立っても喜びを爆発させるというよりはやるべきことをやった職人の雰囲気だった。
まとめ
今回は、虚血性心疾患のため札幌市の病院で死去した、元スキージャンプ選手の笠谷幸生さんについてまとめました。
「日の丸飛行隊」として、多くの人に感動と勇気を与えたスキージャンプ選手です。
笠谷さんのご冥福をお祈りします。
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